トムのざれごと
散策ぶらつきブログ。
プロフィール

黒岩 司

Author:黒岩 司
職人:黒岩 司
性別:男
誕生日:1958年7月26日生まれ
理容師資格:1976年山口県
美容師資格:1979年東京都
1983年:おしゃれサロンTOMを開設
1988年:106(トム)開設~現在に至る
趣味:競技麻将・史跡巡り
山口県長門市西深川4078-5
TEL~0837-22-3776



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

上杉憲実
9月5日(月)
台風12号が紀伊半島に災害の爪痕を残し去って行った。

昨夜は競技痲将サークル花竜(ふぁろん)6年目の打ち上げ懇親会も終了!!
変換 ~ DSC06815
来月の10日に今年も柳本店(銀座)で痲将連合ミュー主催のチャンピオンシップが開催される!

その翌日に一人ぶら~と鎌倉へ行く予定にしている。

千姫(家康の孫)の助命嘆願によって奈那姫を救い自らの養女として尼寺の鎌倉東慶寺に出家させた。
奈那姫は秀吉の孫娘(天秀院)!!
加藤明成と堀主水の会津事件やその後の「縁切寺」「賭け込み寺」になっていく東慶寺に興味が湧く!
明成の父~加藤嘉明が一代で築き上げた40万石!
その父と犬猿の仲だった藤堂高虎が徳川幕府の為と推挙してくれた会津藩主の座!
全てをパーにしてしまった不詳の息子~加藤明成

家康の側室の『お勝の方』…(英勝院)!! 
関ヶ原での勝利の女神であり、『塩』の逸話も面白い英勝寺!!
お勝は大田道灌を先祖(5代前)に持ち13歳で家康の側室となる!
現代であれば淫行条例で捕まるところだが…

その大田道灌の祖父に長尾景仲がいた!

長尾景仲は上杉憲実の家臣!

上杉憲実は主君である鎌倉公方の足利持氏が京の6代将軍・足利義教と対立関係を深めるのを恐れ、なお且つ暴走しないよう京と関東の融和を身を挺して心がけていたが野心に燃える持氏は、そんな憲実の存在がうざくなり~
1438年8月に持氏は家臣の憲実に対して討伐の兵を挙げた!永享の乱である。

憲実は主君に打たれることを恥じ自害も考えたが、近達に諭され鎌倉を離れ領国上野へと下った。

この挙兵に対して、幕府の対応は早く、2ヶ月後には完全に包囲され持氏の挙兵は完敗に終わった。

持氏は降伏の和議を申し込んで金沢の称名寺で出家したが、義教は持氏と義久の父子を鎌倉の永安寺に幽閉する。

翌年の1439年に憲実は自分を殺そうとした持氏・義久親子を関東地方の安定統治の為に必要だと助命を幕府に願い出たが許されず、持氏・義久親子は共に自害に追い込んでしまう。

憲実は補佐を果たせなかった責任を取り出家、隠遁したが…関東は翌年の1440年に結城合戦も発生するなど、極度に不安定化していった。

上杉憲実がここ西国の曹洞宗寺大寧寺に来る10年前の出来事である。
DSC06806.jpg

幕府は関東の安定と秩序回復の為に、憲実の能力を必要とし幾度となく関東管領への復帰を打診していたが憲実はその度に拒絶!

憲実は世を儚み、持氏・義久親子らの慰霊のため諸国行脚の旅に出る。

鎌倉五山第二の円覚寺を経て所縁の伊豆の曹洞宗国清寺を頼り、、、、、

円覚寺…
変換 ~ DSC06855


さらに自身の子供達も出家させ、憲実は子供達に決して還俗せぬよう命じていた!(次男の房顕を除いては)…
なぜ???房顕を除いたのだろう???越後に居て関東に居なかったせい???よくわからない、、、

その頃、京では1441年6月24日に、足利義教を暗殺された事件~『嘉吉の乱』が起こる!

幕府の家老職を務めていた、赤松満祐に合戦の祝勝会で宴を催すと…義教ら大名を誘きだす。

くじ引き(4人)で将軍の座を射止めた義教は傲慢だった!!

独裁的な恐怖政治に怯えた時勢の中で…義教に気に入られ~家督を相続した者たちが座を埋めていた。

その座の中に長門・周防の大名~大内持世も居た!持世は叔父の盛見の遺言により家督を譲られた!だから義教に恩義はなかったが…騒動に巻き込まれ死す。。。

一昨年~持世の墓を探しに山口市宮野まで行ったが…山奥で廃寺でおまけにけもの道、そこに雨が降り出して最悪のパターンに探すのを諦めた!また、機会があれば行ってみよう~

1447年、持氏の遺児~足利成氏が鎌倉公方になると、憲実の長男~上杉憲忠も長尾景仲に擁立され1448年秋に還俗して関東管領に就任した。

これを知った憲実は憲忠を不忠の子として義絶した!!!  憲実が大寧寺に辿り着く2年前!!

その7年後に憲実が懸念したように憲忠は新たな鎌倉公方~成氏と対立し謀殺される。

これにより28年間続く~享徳の乱が勃発し関東での戦国時代が始まる!!!

その後の足利成氏は5代に渡り130年間~古河公方として存続し繁栄した。。。

その後の山内上杉家は次男の房顕が関東管領を継ぐことになるが、1463年に長尾景仲が病没し、房顕は関東管領からの辞意を表明したが幕府に拒絶される。
山内上杉家は憲政の時に失速し、上杉謙信を頼って存続することとなる。。。

上杉憲実は40歳の時(1450年)に大寧寺に辿り着き、、、4代~住職・竹居正猷(ちっきょしょうゆう)和尚の弟子となってここ長門で14年間を暮らしたと言う~

憲実は臨斉宗鎌倉円覚寺の僧を招いて再興さした足利学校!
中世唯一の学校施設で、学徒の人数は3000人を越えることとなり、宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー」と海外に紹介という。

憲実が大寧寺に来て5年後の1455年の享徳の乱で長男~憲忠は22才の若さで死す。
同じく関東管領職を継いだ二男~房顕は1466年2月に31才で亡くなる。
その1カッ月後の3月に憲実自身も56年間の生涯を閉じる。

翌年の1467年に応仁の乱が勃発11年間~京の町を焼き尽くし、乱世の時代に突入してゆく!

そんな憲実がなぜ???ここ長門国曹洞宗大寧寺を終焉の地に選んだのかは分からないが興味は尽きない。。。

大寧寺の上杉憲実の墓
DSC06807.jpg















スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://tom106.blog72.fc2.com/tb.php/103-b140b5c9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。